ナメられないために

アメリカに来てから2週間、何か微妙なストレスをずっと感じていたことに気がついた。感じていたストレスが何であるかを意識することができた、といった方がいいかもしれない。

主にスーパーの店員やウェイター(男性)と接するときに感じていた。野球を見に行った時も、似たような感覚を味わった。それは、端的には何と表現するか困るが、「生物として貶められている」、あるいは「オスとして下に見られれている」感覚である。やはり、白人や黒人で体格的に自分よりも立派な人と接するときに感じてしまう。やはり、男性に特有の感情だと思う。アジア人の男性なら、大なり小なり思い当たるのではないだろうか。

そもそも、自分は元々は、「弱気」「内気」といった言葉が自分でしっくりくるメンタリティである。「押しの強さ」や「根拠なき自身」といったものはあまり持ち合わせていない、と思っている(ちなみに、仕事の上では、そろそろそれが課題として浮上してきつつあり、乗り越えられることが求められる頃合いである)。しかし、幼少期にアメリカに6年間、社会人になってからはドイツ・ロンドン・インドに数ヶ月単位で滞在したことがあったが、これほどストレスに感じたことはなかった。社会人としても当時はまだ若く、一人であったこと、また、仕事上の滞在だったため、生活のほぼすべてが「仕事の延長上」であったことから、外的に求められる空気と自分の纏っていた空気の間のギャップは小さく、ストレスを感じなかったのかもしれない (自分が鈍感だっただけかもしれないが)

一方、今は、「立派な大人」であり、「夫」である。妻との外出時は、「頼れる夫」として期待される像がある。また、そもそもの「社会的位置づけ」というか "appropriate position in the social class" とでもいうか、そういった役割に求められる人格もある。そのような人格を纏って、演技を全うすることを意識的にしていなかった。仕事上の「職業人格」以外に、パーソナルな「家の外の人格」というのを持っていなかった。無防備なものである。

アメリカは、自由・平等に見えて、あらゆる場面で、「自分のような人々にふさわしい言動」が細かく求められる。西海岸のオープンな雰囲気でも、それは当てはまる。また、ヨーロッパでもアメリ東海岸でもなく、Bay areaは Bay area なりの、「オープンっぽくもラインは守る」作法がある気がする。それがどういうものであるか、これから徐々に、意識的に、身に纏わなければ、長期的にアメリカで生活することを心地よいと感じることはできないだろう。

学校が始まる前に、one of MBAs でなく、ただの「そこに生活する人」として、身体でこのレッスンを感じることができたのはよかった。この2年間で求められる"Professional" な面での成長にも寄与してくれるだろう。

そういう意味でも Audi を買ったのはよかったのかもしれない。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

春樹が自身のアメリカ生活について綴った文章


そういえば、イチローが渡米してひげを生やしたのも、「ナメられない」ためだった(と聞いた気がする)